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詩集「おかあさん、どこ」強さ 弱さ
お母さん怖いよ、と
しがみつく娘の頭をなでながら
「大丈夫よ、大丈夫。
あんなのちっともこわくないの」と
言い聞かせる
こうして私は彼女のために
一つずつこわいものを失って
少しずつ強くなる
だけどそれとは反対に
気づいていくのだ 彼女は
少しずつ少しずつ
安心しきって抱かれていたその腕が
ただの 弱い女のものだったということに
せんぱいママ
大切なのは
愛情よりも根性なのだと
その人は笑った
こぼれ落ちるほどの
愛情に満ちた笑顔で
根性のない愛なんて
ただの泣きごとなんだと
その人は笑った
まぶしい黄色のタンポポが
やわらかな綿毛に変わるように
その人はふいに笑うのをやめて
「だけど、私もいっぱい泣いたよ」と、
やさしく言った
つながりのあるだれか(東日本大震災)
避難所をうつすテレビの画面に向かって
五歳の息子は叫んだのだ
母親にしがみつく 小さな男の子を指さして
「あれはぼくのお友達だよ!」
「違うよ。よく似ているけれど違う子だよ」
なだめる私に首をふり
以前公園で遊んだ、名前を知らないお友達だと
何度も悲しげに繰り返すのだった
「あれは僕のお友達だよ!
あれは僕のお友達だよ!」
繰り返しひびく息子の声が
私の心を小刻みにゆらす
そうかもしれない そうなのかもしれない、と
いつのまにかつぶやきながら
私は、まばたきもせずに
唇をかんだ
一人でできることが
「一人じゃなんにもできないくせに!」
そうののしった私を
幼いあなたは
決して忘れはしないでしょう
そして未来のあなたは私のことを
「一人じゃなんにもできない人だったのだ」と
そう思い出すでしょう
そうです
子供にそんなことを言う大人は
一人じゃなんにもできない人です
お母さんはそういう人でした
だけど あなたのおかげで
一人でできることが
一つずつ 一つずつ ふえていったよ
自分のために
トイレのドアをたたく
よちよち歩きの小さな手
「ままーままーままー。どこーどこー?」
一分間だけ・・・ 耳をふさいだために
今日一日が・・・ 罪悪感で埋まる
ああ 不満や不安はこぼれ落ちて
手の平には 喜びだけが残りますように
涙やため息は結晶となって
胸の中で メダルのように輝きますように
子供のためだけに過ごした
今日一日の最後に
私は 自分のためだけにお祈りをした
きのう見た夢
ぼくがきのう見た夢はね
手のひらくらいになったお母さんが
ちょこちょこ幼稚園にむかえに来た夢だよ
朝、おくってもらう時は
いつもの大きいお母さんだったのに
それでぼくは お母さんを手に乗せたよ
ふんだりなくしたりしないようにね
そうなんだね 私、知らなかった
大きくなっていくあなたに
目をほそめている時
あなたの中では私が
どんどん小さくなっていたなんて
姉弟
「幼稚園でもらっためずらしいおやつ、
こうちゃんにもあげたかったの」
お姉ちゃんがそっと小さな手を広げると
にぎりしめたワタアメが
カチカチにかたまっていた
「ひかりちゃんがいないと、つまんないわけじゃないよ
ただ、さびしいだけ」
私と二人だけの部屋で
弟は たどたどしくうったえた
人間は
かたわらにいる人を 愛さずにはいられない
幼い子供から それを教わる
子育て支援センター
誰も知りあいがいない町を
知りあいをさがして 黙々と歩いた
首がすわらない娘を ベビーカーにのせて
公園のむせかえるようなセミの声が
こわれた機械の雑音に聞こえて
真夏のアスファルトは
ゆがんだチューインガムのようで
ただ 誰かと話がしたいと思った
その時 「おひさまサロン」とかかれた看板のむこうで
「よかったら遊んでいきませんか」と手をふる人がいた
「だれでも、遊べる場所なんです」
私はその晩 この町に
私を知っている人がいて
私の娘を知っている人がいる
そう思うだけで うれしくて眠れなかった
がっかりしないで
お姉ちゃんの授業参観日に
弟が熱を出した
お姉ちゃんはまだ一年生だから
お母さんをさがしてふり返るお友達のなかで
きっと さびしい思いをするだろう
熱で赤くなった弟の寝顔をみつめながら
何て言おうか考えていたら
娘は私の顔をのぞきこみ
そっと言った
「授業参観に来られないからって
そんなにがっかりしないで
お母さん」
謝罪
「おかあさん、ごめんなさい」
眉間のしわをうかがいながら
幼い娘は おびえた声をあげた
無力の者の謝罪はせつない
私は 後味の悪いつばを飲みこんだ
窓の外で 五時のチャイムが鳴っている
部屋の中に 夕闇がしのびこむ
あと数年で 未熟な母を飛びこえて
幼い娘は 成熟した子供になるだろう
そして私を見下ろして言うだろう
「お母さん、ごめんなさい」
その時私は
自分が無力の者になったことに気づく
夜中のキッチンに流す
「母親のくせに」
そう言われるのが怖い
「みんなが当たり前にやってきたことだ」
そう言われるのが怖い
そう言われただけで傷つく、弱い自分を知るのがつらい
だから私は 自分の本音を上手く隠して
はずかしい弱音は 夜中のキッチンに流す
ほめてほしい 好きなことがしたい 自分の時間がほしい
疲れた 眠い もういやだ
「んぎゃあ、んぎゃあ、んぎゃあ」
娘の夜泣きがひびくキッチンで一人、
私が渇望したものは
なぐさめや説教や 叱咤激励ではなく
ただの・・・共感だった
お母さんはこう思う
裏表のない人間なんて
うすっぺらいと私は思う
裏や表を上手に作って 厚ぼったくなって
絶対に使ってはいけない言葉や
極力使うべき言葉に 思いをめぐらし
汗や涙で本心を濡らしながら
大人になっていくのだ、と思う
いつでも洗いざらい本音を言っているのに
みんなが笑ってくれているのだとしたら
それは あなたが子供だからだ
子供だからしかたないか、と
みんなはあなたを笑っているのだ
あなた自身を笑っているのだ
母娘
「まあ、ばあばの娘をいじめないで」
実家に帰省中
三歳の娘と 大人げなく言いあう私を
たしなめもせずに あなたは言いましたね
「どうか、ばあばの娘にやさしくしてちょうだい」
ああ、お母さん 私はもう
頭のてっぺんからつま先まで
母親でいなくちゃいけないと思ってたの
お母さん、ここでは私 まだ娘でいていいの?
それから私は
一人の素直な女の子に戻って
目の前で怒っている小さな女の子に
ちゃんと言ったの
「ごめんなさいね」
お母さんを
がっかりさせたくなかったからよ
ジイジ
手術の麻酔がぬけない体を
ぼんやり横たえていた父は
ベッドの足元に孫をみつけて
一瞬で いつものジイジに戻った
「おかし、おかしやるぞ」
枕元のゼリーをつかみ
せいいっぱい右手をさし出せば
小学生の娘は やせたジイジに涙をため
「ジイジのぶんがなくなるからいらない」と言った
幼稚園の息子は 無邪気に受け取り
「ゼリーだ」とはしゃぐ
「ゼリー好きか」満面で笑うジイジを見て
娘は
「ジイジ、やっぱりちょうだい」と
宝物のようにゼリーを受け取り
大切にポケットにしまった
重み
自分が少し悲しむと
お母さんがすごく悲しむから
それがつらいと娘が言った
自分が泣いていると
お母さんがすごく気にするから
それが嫌なんだと 私をにらんだ
ああ こうして親たちは
やわらかな手かせ足かせとなるのだろう
あたたかな鎖をからませるのだろう
多くの子供たちが その重みで
何かを思いなおすのだろう
何かを思いとどまるのだろう
投げやりに進み始めた歩みは止めて
声をあげて引き返すのだろう
無駄
「私の人生に無駄なものなど一つもない」
そんな よく聞くセリフを言うような人は
傷つきやすい臆病な人間だ
散らかった部屋の真ん中で
うっかり赤ん坊と一緒に寝てしまい
目をさましてから 頭をかかえて後悔
流しの中に積まれた食器
かごいっぱいの洗濯物
そんなものさえ
何かの糧になっているんだと思わなければやっていけない
そんな 自分を責めることに臆病な人間
私はそういう幸福な人間をめざそう
「無駄なものなど一つもない」
そう自分に言い聞かせながら
平安の日々を手に入れよう
抱きしめたくなる
お母さん、私
どうやったらまた 赤ちゃんに戻れる?
小さくなったら
ごはん食べさせてくれる?
だっこでねかせてくれる?
娘のそんなささやきを
哀しく思うし 愛しく思う
病院で初めて弟を見た時の
不安げな顔を思い出し
小さな体を ぎゅっと抱きしめたくなる
お母さん、私
どうやったら早く 大きくなれる?
一人で歩いて 幼稚園に行きたいの
一人で遊びに行きたいの
娘のそんなつぶやきを
寂しく思うし 嬉しく思う
漠然とした遠い何かに向かって
確実に進んでいるその小さな体を
「まだ行かないで」と
ぎゅっと抱きしめたくなる
よその家
他人の子が
とてもかわいく見える時がある
聞きわけがよくて 素直で 優しくて 明るくて
まあ、なんてかわいいのかしら あの子は!
その時ふと
娘の視線の先に気づく
娘はよその子のママを見ている
きれいで やさしくて 歌やお話が上手なママを!
娘はそっと 私の手をにぎる
私もそっと 娘の手をにぎる
それから手をつないで 帰る
私たちのおうちへ
気づいた
何かを失ったと思っていた
何かを奪われた、と
だけど今、
光の粒をふきあげる噴水のように
キラキラと笑うあなたを見て
あなたが幸せになるなら
私の幸せを全部あげてもいいと思った
何かを失ったと思っていた
何かを奪われた、と
だけど今、
公園の芝生の上 両手をひろげて
小鳥のように走ってくるあなたを見て
失ったものなどひとつもない、と気づいた
あなたがあなたの幸せで
私を満たしてくれたんだ、と気づいた
お母さん、どこ
「ヒカリちゃんのお母さん、どこかしら」
「ここにいるじゃない」
「それはコウちゃんのお母さんでしょ」
弟を抱いた私に、娘は言った
長いまつげの小さな目は
悲しげにも見えたし、
何かをためしているようにも見えた
「じゃあ、ヒカリちゃんのお母さんはどこにいると思うの」
「病院に寝ているんだと思う。バアバが言ってたよ。
ヒカリちゃんのお母さんは、病院に行ったよって」
娘は、私が弟を出産した日のことを言っているのだ
「お母さんをむかえに行かなくちゃ」
玄関でくつをはこうとする娘の
小さな背中を見ていたら
私は
夕闇の中で
大切な人に置き去りにされたように
心細くてたまらなくなった
同時になぜか
動揺している自分が
くやしくもあるのだった
娘はふり返って
私が泣いているのを見て
「あっ、ヒカリちゃんのお母さん、
やっぱりここにいた」と
無邪気な風に言うのだった
愛し続けていること
いつかあなたも
母親に言えないことを
考えたり、したりするでしょう
その時は思い出してください
あなたの母親も
子供には言えないことを
ずいぶんしました
作ったばかりの離乳食をひっくり返されて
何もわからないあなたの細い腕を
思わず叩いたこともありました
あなたは驚いた目で私をみつめ
小さな手を
不安そうにもぞもぞさせていました
夜中、泣きやまないあなたを
布団の上にほったらかして
ため息をつきながら
ながめていたこともありました
あなたはぬくもりを求め
いつまでも涙を流していました
私は母親として 自分をはずかしいと思いました
だけど、苦しみにつぶされることはなかった
それは、小さなあなたが
私を愛し続けてくれたからです
だからもしいつか
あなたが母親に言えないことを
考えたり、したりして
つらい思いをすることがあったら
思い出してください
あなたに愛され続けて救われた私が
いつまでもあなたを
愛し続けていることを
母になって
時に私は
絶対君主の王となって
腰に手をあて、有無を言わさず、
叫ぶ
なぜ?という問いかけなど無駄だ
「今すぐおもちゃを片付けて
テーブルにつきなさい!」
時に私は
彼らの下僕となって
雑巾を持って床をはいずり
彼らの食べかすを拾い集める
排泄のたびにパンツをおろし
夜中に目を覚ませば水を運び
眠りにつくまで歌を歌う
そうして彼らは
毎晩ふとんの上で
神様になる
私の背中に頬をよせ
私の胸に鼻をうずめ
ぴったりとくっついてくる小さな体
私は彼らの存在が
私の過去の過ちを
すべて許してくれたのだ、と信じこみ
しみこんでくる鼓動や
ささやくような温もりに
感謝の祈りを捧げる
小野省子HP:http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm)
・Shoko Ono 2012
解説
人間は幼児と出会います。日常生活の中で、その時間は神や宇宙との会話。
最近まで宇宙の一部だった幼児たちは、不思議な伝令役。無数の人たちが何万年もの間、見事に頼りきって信じきってくれるひとたちの前で、自分を体験し発見してきたのです。幼児が横に座っているだけで、人間はいい人間。進化に不可欠な、大切な時間が幼児といっしょに過ぎていきました。
三歳の娘に、「おかあさんどこ?」ときかれた母親は、立ち止まるしかありません。
幼児の真剣さに、時々心細くなり、一途さにオロオロし、子どもの気持ちに寄り添うことで母親は、自分が居る場所を確認する。立ち尽くし、泣くしかない時もある。感性を震わす瞬間を子どもたちから与えられ、人生は深く、やさしく、温かいものになってゆく。
むつかしいことではないのです。人間は、信頼される短い時間に感謝し、幼児に少しあこがれて生きてゆくのがいい。
幼児がひとりいると、その家の空気が変わります。
一つ屋根の下で、一人では絶対に生きられない幼児と住み、人間たちは絆をつくる姿勢になるのです。選択肢は無い。それがいいのです。ありがたいのです。
親は子どもを選べない、子どもも親を選べない。育てあうしかない。育ちあうしかない。人間がつくるすべての絆の原点に子育てがありました。
幼児に愛され、許され、救われて、
人は、祈ることを おぼえます。
幼児は、その命に感謝する人がまわりに数人居れば、輝きます。
そして、輝き、無心に遊ぶ幼児たちの風景が、人間たちに、いつでも幸せになれることを教えます。どんなに努力をしても、あれほど幸せにはもうなれないかもしれない。
しかし、あのひとたちの幸せを守っていることに幸せを感じればいい。
自分の中にもあの頃の自分が生きていることを思い出せば、それでいい。
歩けない、しゃべれない、トイレにもひとりでは行けない0才児から順番に数年間幼児につきあい、人はすべての人間に様々な役割があることを理解します。そして、パズルのように組み合わさって、支えあい分かちあう関係をつくる。幼児に愛されることは、パズルの組み方が上手になること。弱者の役割に気づくこと。「親身」は、親の身と書きます。
選択肢がないから、育てあい、育ちあうしかない。それを知り、人間は人生の可能性に気づきホッとする。パズルの組み方が無限にあること、それも生きる力でしょう。
子を産み、育てることは、人類が宇宙から与えられた尊い仕事。生きている自分を確認し、幸せの意味を知る道でもありました。人間の本能がそれをさせているのでしょう。
もっと尊い仕事は、子どもたちが親を育てること。それは宇宙の動きそのもの。自分自身を体現し、一律一人では生きられないことを宣言すること。宇宙の意思がそこに現れます。
ある日、省子さんから一束の詩が届きました。人間が人間らしくなることのすべてがそこにあるような気がしました。私は「おかあさん、どこ」と「愛し続けていること」を講演の最後に朗読するようになりました。
省子さんが書き記してくれた瞬間が、一つでも二つでも増えるようにすれば、宇宙の意志に一番近いところにいる幼児たちが、必ず私たちを育て、守ってくれるような気がします。 松居 和
(この詩と解説は、http://kazumatsui.com/genkou.htmlからダウンロードできます。)