Welcome to Kazu Music Japan.

「東京都私立幼稚園連合会原稿「都私幼だより」2012年3

ある日、保育園に講演に行くと父親がたくさん来ていました。話し終わると、園長先生が人数分用意しておいたウサギのかぶり物を配り、「はい、お父さんたち、ウサギになって下さい!」と言うのです。
  保育園で、園長にウサギになれと言われたら…。
  …なるしかない。
  ハッとし、宇宙の法則を見ている、と思いました。「園長は父親をウサギにする権利を持っている…」人間の作ったルールでないことは直感的にわかりました。宇宙を信じる幼児たちの前では、人間は正しい方向に進むしかない。たとえ、それがウサギになることであっても…。
  数人の父親の顔が強ばりましたが、かぶって3分もすればウサギです。父親たちも、ウサギになりたかった…。
  昔、男たちは、年に数回、「祭り」の場でウサギになっていた。子どもだったころの自分が心の中にまだいる。いつでも幸せになれることを確認していたのでしょう。園が、時々幼児の役割を果たさせてあげたら…。社会に自然治癒力が働くはず。
  保育士が、週末48時間子どもを親に預けるのが心配だ、と言います。せっかくいい保育をしても、月曜日また噛みつくようになって戻ってくる。お尻を真っ赤にして帰ってくる。一度もオムツを替えない親を作り出したのはシステムです。システムが子育てを始めると、社会から人間性が欠けてくる。新システムには、子どもと一番長くいる保育士の幸福感(観)さえ関数として組み込まれていない。だから、すぐに成り立たなくなる。欧米を凌いできた日本の経済と安心の基盤だった家庭が、雇用労働施策で壊されてゆきます。
  三歳までに親に関心を持たれなかった子どもは安心の土台がないから新しい体験をしたときに不安がってそれが壁になる。安心している子どもには、新しい体験がチャレンジになって、壁がその子を育てる、と言われます。現在2割、十年後3割の男たちが一生に一度も結婚しなくなる。結婚という壁を乗り越えようとしない男たち。経済は数字ではない。人間の生きる力です。
  去年「保育の友」九月号で、幼保一体化ワーキングチームの座長が、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言いました。幼稚園教育要領と教育基本法の否定です。しかし法律なんかどうでもいい。これは人類の進化に関わる発言です。児童養護施設は虐待された子どもで満員。子育ての第一義的責任が親から離れたら家庭は機能を失い分裂し、虐待や犯罪が増え、やがて「社会」はその責任を負えなくなる。
  ある保育園の園長が未満児を預けに来た親の顔を見て言いました。「いま預けると、年とって預けられちゃうよッ」
  信頼関係を築く意志がなければ言えない。古来「子育て」は夫婦という単位から始まり、社会に信頼を満たすためにありました。システムが未満児を預かることは信頼が家庭から薄れ、老人介護に莫大な費用がかかること。こんな園長がいるうちに、保育界は「子どもたちのために、この国のために」子育てを親に返していかなければならない。親であることが幸せでなかったら人類はとっくに滅んでいたのです。
  親と一緒にいたいと思い、親をいい人間にする役割を担ってきた子どもたちの存在理由を想像すれば、幼稚園の保育園化より保育園しかない自治体に幼稚園を作ってもいい。未満児を持つ父親の残業を制限し、この時期だけでも母親が子育てに集中できるようにしたらいい。公約で「チルドレンファースト」と言うなら、子どもたちの願いを中心に施策を進めてほしい。
  学者が言います。「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある」
  社会が育ててくれれば産む、ということでしょう。しかし、日本の少子化現象は、自らの手で育てられないのだったら産まない、という親子関係を文化の基礎にする美学ととらえることもできます。この考え方の方が、自然だと思います。
  自分で育てられなくても産む、という感覚の方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。ひょっとすると、人間性の否定かもしれません。
  保育者の意識が子どもたちに寄り添う時が来ています。