私がたった一人で公園に座っていたら変なおじさんです。でも2才児と二人で座っていたらいいおじさんです。人間は宇宙の相対性の中で暮らしています。幼児はいるだけで人をよい存在にする。人は、幼児に信頼され、信頼される時間に感謝し、幼児にあこがれて生きてゆくのがいい。
技術や仕組みの進歩に惑わされると、急速な進歩が何万年もの間育まれてきた人間の感性や本能を退化させていることに気づかなくなります。もう一度、「人は、信じあうために生まれてくる。その原点に子育てがある」ことを保育や教育の場で、意識的に幼児を眺めることによって思いだすといいのです。「親を育て、絆を育む」という役割を、園が幼児たちに果たさせてあげる時だと思います。
子どもを産み、育てることは宇宙から与えられた尊い仕事。宇宙との対話、親が自分自身を体験することでした。
見えにくいのですが、もっと尊い仕事は、子どもが親を育てること。それは宇宙の動きそのもの。一人では生きられないことを宣言し、利他の道を示すこと。宇宙の意思、姿が現れます。
幼保一体化。幼稚園が雇用労働施策に取り込まれようとしています。
「希望するすべての子どもに家庭以外の居場所を作ります」と政治家は言う。しかし、子どもたちの希望はまず家庭に居場所があること。それがないなら、社会に人間性が欠けてきたということ。親子という選択肢のない関係に感謝する機会が失われつつあるのです。5年以内にもう25万人未満児を預かろうという政府の動きは、子どもたちの希望では絶対にありません。乳幼児と過ごす時間を減らすことで社会から想像力と理解力が欠けてゆきます。モラル・秩序が欠けてゆく。経済施策の次元ではない、国家の心のインフラに関わる問題です。
「就学前のすべての希望する子どもたちに質の良い居場所を。=幼保一体化など」と政治家が書きます。
幼稚園・保育園、それぞれ大切。どちらを選択するか、決断を迫られることはもっと大切。子どもを一日平均十時間、年に260日他人に預けるには決意と自覚が求められるのです。「安心して子どもを預けられる環境づくり」が「気楽に子どもを預けられる環境づくり」になったら、福祉も学校も民主主義も成り立たなくなる。人間の作った仕組みの多くが、親が親らしいことを前提に作られているからです。発言できない幼児の希望を想像することは、大人たちが人間性や生き方を問われることです。
「幼保一体化は、多くの関係者の悲願でした。」と学者が言います。
「幼保一体化は多くの関係者の悲願」ではありません。子どもや親たち、現場で働く保育者の悲願でもない。幼保一体化を進める政府のワーキングチームの座長が、公共放送で本質に関わる事実ではないことを言う。
新待機児童ゼロ作戦に「希望するすべての人が子どもを預けて働くことが出来る社会」を目指す、と書かれたとき、「希望するすべての子どもが親と一緒にいることが出来る社会」を目指す方が自然ではないか、と心を痛めた保育士がたくさんいました。
「一日体験保育」が少しずつ始まっています。せめて年に一日一人ずつ、親たちが「さあ、今日はあなたたちが優先です」という姿勢を自分の子だけではなく他の子たちにも見せてくれたら、人間社会に信頼と絆を取り戻す一歩になるはず。幼児という一番幸せそうな集団が、人間たちからいい人間性をひき出す力を信じれば、この国はまだ間に合うかもしれない。
幼稚園という選択肢がある自治体では、まだ7割の親が子どもを幼稚園に預けます。子どもたちのために、その気持ち、本能を保育界が守り続けなければいけません。
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