Welcome to Kazu Music Japan.

講演内容

1.なぜ、わたしたちは0歳児を授かるのか。(言葉を介さないコミュニケーションの大切さ。いつか、盆栽とだって話せるようになる。人間のコミュニケーション能力と感性を引き出すことが乳幼児の役割。幼児とゆっくりつきあうことによって、人間は社会というパズルの組み方が上手になる。)

2.子どもたちは、どう親を育てるか。親子という関係に選択肢がないから、育てあい、育ちあうしかない。それを知り、人間は安心する。(人間たちの善性をひき出さなければ生きていけない子どもたちたち。頼りきり、信じきることで親を育て、まわりに絆を育てる。)

3.奇跡の国、日本。(先進国の中でなぜ、日本だけ状況が良いのか。家庭観。犯罪率。幼児虐待の数。学校の状況。)

4.子育てにおける学問的迷信。(現代の迷信から解き放たれるために、言葉に支配されないために、原点を見つめる感性・視点を身につける。)

5.保育園・幼稚園、学校、民主主義、福祉、すべて親が親らしいという前提のもとに作られている。この前提が崩れるとシステムは社会から人間性を奪いはじめる。(自然治癒力、自浄作用が働くために、子どもたちの本来の役割りを取り戻すことが必要。)

6.子はかすがい、ではなく子育てがかすがい。子どもを共に眺めることで、社会に絆が生まれる。幼児期の子育てを通して、夫婦が互いの良い人間性を確認しあうことが社会の土台。

7.子育てに必要な視点と感性。(人間は生まれながらにそれを持っている。幼児を眺め、育てることで感性がひきだされ遺伝子がオンになる。ペット、人形、盆栽、しゃべれない者たちが同じ役割を持っている。)

8.保育園・幼稚園・学校と家庭が「子育て」で一つになるため。一日保育士体験。育てる人間たちが一緒に子どもの幸せを願うことで、子どもはその役割りを果たす。幼児に囲まれ、人間たちが自身の中にある人間性を発見し自分を体験する。部族の感覚。(子どもたちにとって「保育の質」「教育の質」は、親と保育士・教師の信頼関係。保育者の資質は子どもの幸せを願うこと。保育者は子どもの幸せは親子関係にあると知っている。)

9.園長は、父親をウサギにする権利を持っている。校長は?

10.子どもたちによって救われていることを思い出した時に、人は落ち着く。

11. 親が子どもを育てることは、人間の本能と意思がそれをさせている。
 幼児が親を育てる風景は、宇宙の意思、姿がそこに現れる。


「親心を育む/一日保育者体験」   松居 和

 幼児がはじめて一歩歩いたとき、それを見ていた人間は嬉しくなる。それを一緒に見ていた人間の心がひとつになる。それが人間社会の原点です。それが人間たちの生きる力。
 産むことは、育てること。0歳児と、言葉の返ってこない会話を繰り返し、人の気持ちを想像する体験を重ね、人間は幸せになる方法を見つけます。
 0歳児との不思議なコミュニケーションが、何千年もの間、人間の精神的健康を保ち、絆を育んできた。幼児は生まれて数年の間に、様々な手段で私たちを育てます。

 4才児が一番完成している人間、と私は決めました。
 「頼りきって、信じきって、幸せそう」。宗教が求める人間像がそこにあります。完成している人間が、非論理的で、しかもひとりでは生きられない。素晴らしい仕組みです。お互いに育てあうしかない。育ちあうしかない。
 砂場で幼児が集団で遊んでいる姿を見つめ、人間は、自分がいつでも幸せになれることに気づきます。幸せは、勝ち取るものでも、つかみ取るものでもない。「ものさしの持ち方」だと知る。

 インドの村で時間を過ごしていると、一日の生活のどこかで必ず乳幼児を見る。ひとりでは生きられない人たちを仲間と意識し、時が流れてゆく。親が乳幼児を育てながら、「この子は自分がいなければ生きていけない」と強く意識すること。それが、人間社会の土台となる「意識」だと思います。その意識が広がって、人間たちは自分の役割りや存在意義をパズルのように決めてゆく。そして社会が出来上がってゆく。だからこそ先進国で、多くの人たちが、親や祖父母ばかりではなく、小学生から大学生まで、教師たちも経営者たちも、幼児を眺める時間を増やさなければならないと思うのです。(そうすれば、障害を持っている子どもや大人、認知症の老人,いつの時代でも居たこのひとたちの役割りさえも再び見えるようになってくる。障害を持っている子どもの一番の福祉は母親のゆとりある心持ちです。それを支えるの「絆」という、人間が心を一つにしようとするエネルギーです。)
 「社会で子育て」「システムで子育て」。これでは、ますます社会に絆や人間性が育たなくなる。幼児に信じてもらって人間の人生が定まることを思い出さなければなりません。

  保育園や幼稚園で親たちが「保育者体験」をすると、子どもたちが喜びます。その喜ぶ姿を見て、親たちに、「感謝」の気持ちが生まれます。親たちの感謝に囲まれて、保育者が幸せを感じ、保育者と親たちの信頼関係が学校教育を支える。子どもは、まわりに数人その命に感謝するひとがいて育つのがいいのです。

 日本はまだ奇跡的に良い状況にあります。アメリカで3割、フランスで5割、スエーデンでは6割の子どもが未婚の母から産まれています。子育ての社会化が進み家族という形が失われ始めている。子育てが人生の目的から外れると、社会全体のモラルo秩序が崩壊していきます。犯罪率(たとえば傷害事件)を比べれば、アメリカは日本の25倍、フィンランドは18倍、フランスは6倍です。
 日本がなぜこれほどまだ良いのかを考えなければなりません。子育てによって培われる弱者に優しい「心」が残っているからです。男女が協力し子どもを育てる姿勢が、欧米に比べ奇跡的に残っている。本当の意味での男女共同参画がまだこの国には残っているのです。(だからこそ経済状況もヨーロッパに比べれば奇跡的にいい。)

保育園・幼稚園における「一日保育者体験」について

 四年前、保育園の園長先生と保育者二〇名で「親心を育む会」という勉強会を始めました。そこで提案されたのが「一日保育者体験」です。年に一日、保育園の場合は八時間、親が一人ずつ園児に囲まれ過ごす。
 三つの園でやってみました。その結果は、会のメンバーを驚かせました。親が全員参加したのです。文句がほとんど出なかった。感想文に、判で押したように、保育園への感謝の気持ちが書かれていました。(「親心を育む会」のホームページに感想文が何百と積み上げられています。)
 半数の親が嫌がります。会社を休んで8時間。しかも一日ひとり、または一部屋にひとりです。
 でも、半数の親たちが、何月何日私が来ます、とスケジュール表に書き込んでくれます。すると、つられて残りの3割が書き込みます。最後の2割は、もう他の親たちの保育者体験が始まっていますから、子どもたちが「お母さんは、いつ来るの、お父さん、来るの?」と聞いてくれます。保育者は、「子どもたちが喜びますよ」「子どもたちが喜びますよ」と、繰り返し薦めます。園に対する信頼があれば、一年かければほぼ全員参加します。それで説得できないなら、信頼関係がないのだ、と思い、心を一つにする努力をします。やがて、その努力こそが保育者の姿だと保育者自身が思い出す。(信頼関係とは相手を理解することではなく、理解しようとすることだと気づく。)そして、子どもたちを可愛がり、「子どもが喜びますよ」を、心を込めて言い続ける。それでも駄目なら仕方ない。そういう親も人類の進化に必要なのでしょう。一日保育者体験は、父親母親全員が参加した時、園と親たちの信頼関係ができた、ということなのです。全員は無理でも、それを目指すことに意味があるのです。あとは子どもたちの生きる意思、親を育てようとする宇宙の流れに任せればいい。

 お母さんがやったら、お父さんも、お父さんがやったら、お母さんも、と薦めます。夫婦が、別々の日に、卒園までに3回か4回、これで一家の人生が変わります。
 埼玉県では、三年以内にすべての幼稚園保育園で、を目指すことになりました。当時の厚生労働副大臣に頼んで、新しい保育指針の解説DVDに入れてもらいました。保育参観ではなく、参加を、これは、保育指針に書かれ、法律として決まった保育園の役割です。そのことは、堂々と親に言っていいのです。法的裏付けもあるのです。

☆保護者アンケートより抜粋
・紙芝居を子どもに家で読んであげるのと、たくさんの子どもの前で読むのとでは、今日のほうが緊張しました。一日保育参加にきてとてもよかった。
・本人に生活習慣を学ばせるのは、すごく難しくて、保育者の先生の手法がとても勉強になりました。お洋服のお着替えも、あのくらいできるんだと感動しました。それにしても先生はすごい! と、息子のときもそうでしたが、改めて感じ、感謝いたしました。
・とにかくエネルギーにあふれていて、パワーに圧倒されてしまいました。先生は本当に大変ですね。すごい_ と改めて感謝しました。保育参加できてとてもよかったです。読み聞かせは、もっと子どもたちの表情を見ながらやればよかったです。
・保育者の先生方の日々のご苦労を実感しました。わが子のしつけだけでも毎日疲労してしまうのに、多くの子どもに囲まれつつも、教育と安全と、調和を考慮しながらの保育の姿に頭が下がる思いと、紙芝居を読むことが、会社で上司や同僚の前で行うプレゼンより緊張するのだなと驚きました。
・最初は皆と仲良くできるか不安でしたが、子どもが好きなので皆に『○○くんのママ〜』って逆にかまってもらって嬉しかったです。
平日は朝早くから夕方遅くまでお願いしており、忙しくしているので先生方の顔すらよく分からなかったのですが、今回の一日体験で園の中の様子や先生方もよく知ることができました。
保育園での生活リズム・お友だちの顔・お散歩コース等々、いままで知らなかったことをたくさん知れて、いい勉強になりました。保育体験をするまでは不安でいっぱいでしたが、子どもたちが楽しく接してくれ、楽しい一日を過ごせました。でもやっぱり先生方の仕事は大変だなぁと改めて思いました。感謝、感謝です……。参加してよかったです。ありがとうございました。

 (一日保育者体験は、幼児に囲まれ、親が自分の中にあるよい人間性に気づく日、自分の持って生まれた本質を体験する一日です。)

 「一日保育者体験」は、保育者にとってもハードルです。いつでも親に見せられる保育をする、という意思表示です。残念ながら、これに躊躇する保育園があって、日本の保育を囲む仕組みがこのまま進み保育がただの労働になってしまったら、そんな園が増えそうです。老人介護も含めて、福祉の怖い所は、それが「ただの仕事」になってしまった時に、現場から真心を持った人たちが去ってゆくことなのです。だからこそ、子どもたちを守るために、いま「子育てを中心にした絆の復活」を進めなければならない。
 (保育の質の低下は、保育者たちだけの責任ではありません。公立の保育士の6割が非正規雇用で、無資格の保育者を入れなければ11時間開所が成り立ちにくい状況を作っているのは政府です。大学や専門学校における保育科の定員割れが拍車をかけています。非正規雇用、無資格の保育者の質が必ず悪いわけではありませんが、政府や行政が保育(幼児の子育て)を軽視し続けると、国全体の子育ての質が低下し、学校の教師が苦しくなり、障害者や老人を対象にした福祉もやがて限界にくる、ということです。)

 「一日保育者体験」で、子どもが嫌い、という親が変わり、父親の幼児虐待やDVが止まるきっかけになったりします。子どもたちの「お父さんが来てくれた」という素直な喜びが、男たちの「生きる力」になるからです。
 一回やったらもういいじゃないか、という父親がいます。しかし、3年続けると、我が子の成長だけでなく、他の子たちの成長が見えてきます。自分が園に行っただけで喜んでくれる。生きているだけで、喜んでくれる。我が子だけではなく、他の子も喜んでくれる。そんな体験が、父親の心に、自分は他の子どもたちにも責任があるのではないか、という気持ちを芽生えさせる。部族の感覚です。先進国社会が失いつつあるコミュニティーの原点です。
 そして、友だちのお父さんお母さんに毎年一度出会い、世話してもらったり遊んでもらうことによって、子どもたちの心に「みんなにお父さん、お母さんがいる」という意識が生まれます。これで小学校でのいじめがずいぶん減ります。子どもたちが、自分の親の他にも親身になってくれる人が存在することを小さいうちに肌で感じる。これもまた生きる力。部族の感覚。頼ることができる人、信ずることができる人が世の中にはいる、と知ることで人は安心します。頼ろうとしなければ、絆は生まれません。信じようとしなければ、信頼関係も生まれません。子どもたちが大人を信じようとすること、そして大人たちがそれに応えようとすることもまたコミュニティーの原点なのです。
 
 新しい保育所保育指針に、保育所は「子どもの保護者に対する保育に関する指導を行うものである」と書かれました。「保護者とともに、子どもの成長の喜びを共有すること」とあり、「子どもと保護者の安定した関係に配慮して保護者の養育力の向上に資するよう、適切に支援すること」とあります。
 本来、社会が人間性を保つためには、預けたいという親のニーズに応えるのではなく、子どもと一緒にいたい、親と一緒にいたいという人間の本能に応えることが優先されるべきです。経済界や政界が保育の役割を財政的に軽視しているような状態では、「一日保育者体験」によって生まれる、親の保育者に対する「感謝」という側面から、保育者の待遇改善を呼びかけるしかありません。ここ20年ほど進んで来た雇用労働施策中心の保育行政とそれに伴うシステム的考え方には、子どもと一番接する時間の長い保育士の幸福感(観)という関数が入っていない。それゆえ、いずれシステムとしても成り立たなくなる。

 保育者たちが決意すれば、行政や政治家たちに関係なく、この国の人間関係の質を子育て中心の姿に戻し始めることは可能です。子どもを優先して考えてほしい、その願いが政治家や行政にまだ通じないのなら、保育者たちが「子どもたちのために」進めばいい。それを自分たちの生き甲斐と感じればいい。「一日保育者体験」が保育者たちの意思で日本の常識になったとき、この国の幸福を左右する本当の改革が始まります。

「親心を育む会」で検索していただければ、ホームページがあります。「一日保育者体験」のマニュアルがダウンロード出来ます。埼玉県では3年前から「全ての幼稚園保育園で」を目指しています。品川区では、二年前から全ての公立保育園幼稚園で始まっています。長野県の茅野市では、市長さんが「一日保育士体験」をマニュフェストに入れて当選しました。千葉県の市原市、石川県の小松市、横浜市、所沢市でも市長さんがやりましょう、と言ってくれました。高知県でも教育委員会が主体になり県全体で始まりました。

「赤ん坊が人々の絆を育てる」

 中学校で家庭科の時間に赤ちゃんと触れあう体験を生徒にさせている学校があります。妊婦さんや乳児のボランティアを保健所で募って中学校に行ってもらいます。私が見学したのは母校の富士見ヶ丘中学校でした。妊婦さんが一人と、乳児を連れたお母さんが10人。教室の前の方に並びます。赤ちゃんたちはあっちを見たり、お母さんを見たり、眠っている子もいます。一人ひとり、赤ちゃんを膝に置いてお産の時の体験談を語ります。大変だったけど感動しました。そう語るお母さんの顔には真実があります。未熟児で本当に心配したんです、危なかったんです。そう話すお母さんの真剣な顔に、母の強さと優しさを感じます。人間の弱ささえ感じます。それを中学生が見ています。
 グループになっている中学生の机のところに赤ん坊がきます。お母さんが「抱いてみて」と言います。一人の中学生が、恐る恐る、でも嬉しそうに赤ん坊を抱きます。その光景に私が嬉しくなります。お母さんは中学生を信頼して大事な赤ちゃんを手渡した。次世代を信じたのです。信じてもらえた中学生が、誇らしげにクラスの友だちを見ます。いつか自分も次世代を信じる時が来るのです。
 赤ん坊を抱くのが上手な男の子がいました。シャツがズボンのそとへはみ出して、不良っぽく見せています。その子には小さな妹がいて、いつも抱いていたのです。みんなが驚いて感心します。彼は、家ではいいお兄ちゃんだったのです。昔の村だったらとっくに知っていたことなのに、いまは、家庭科の授業がなければ知ることのできない友だちの姿です。
 僕も昔はこうだったんだ、と誰かが思います。お母さんたちも、中学生を見て、私も昔中学生だった、と思います。この時、魂の交流が時空を越え人類全体の人間性を形作るのです。選択肢がないことに気づくと、人間は安心するのです。
 別々に歩いてきた道が、乳児によって結ばれる。生後3ヶ月の赤ん坊が存在する限り、人の心が一つになる次元が存在しているのです。

「高校生の保育者体験」

 高校生、中学生、小学生に夏休みを利用して三日間の保育者体験をさせている園長先生が島根県におられます。もう十五年も前からやっています。
 ふだんはコンビニの前でしゃがんでタバコを吸っている茶髪の高校生が、園に来ると園児に人気が出る、というのです。不良高校生が保育園に来ると生き返るというのです。もともと、心が園児と近いのかもしれません。だからこそ一人でしゃがんでいたのかもしれません。
 園児は駆け引きをしません。駆け引きをしない人たちに人気が出るということは、本物の人気です。高校生もそれを知っています。自分のままでいい、生きているだけで喜ばれる、という実感が「生きる力」になるのです。幼児を世話し、遊んでやって、遊んでもらって、弱いものに頼られる幸せが新鮮に思えるのでしょう。
 幼児とのやりとりは、人間たちに、自分の本質は「善」である、ということを思い出させてくれるのです。本来の自分の姿に嬉しくなるのです。
 家庭科の時間を使って、男女の高校生が二人ずつ幼稚園でクラスに入っているところを見ました。高校生たちが、幼児に混ざって一緒に遊ぶことで「いい人間」になっている自分に気づきます。女子生徒と男子生徒が、お互いを、チラチラと盗み見ています。男子生徒と女子生徒が、お互いに根っこのところではいい人間なんだ、ということに気づくのです。宇宙は、私たち人間に自信を持って0才児を与えている。人間すべてに幼児によって(または弱者によって、時には草花によって)ひき出されるいい人間性がある、と宇宙は信じている。私たちも、もう一度それを信じなければならない時期に来ています。
 幼児と過ごすことによって男女間に生まれるいい人間性の確認、本当の少子化対策は、こういうところから始まるのだと思います。頼る幸せ、頼られる幸せ、両方を知っていなければ絆は育ちません。

校長先生の一日保育士体験
 ある園長先生の園の卒園児が、いまはもう中学三年生なのですが、学校でとんでもない「ワル」になったというのです。行っている中学の校長先生が園長先生の友人で、お前のところの卒園児だが、本当に困り者だ、と話したのです。
 一度見に行ってみよう、園長先生は、中学校に出かけて行きました。
 そして、私に言うのです。
 「見に行ったら、ちゃんとあの子がそこに居ました」
 園長先生が見たのは幼稚園時代と同じ、あの子でした。幼稚園時代を知っている園長には、中学生になってワルと呼ばれても、その子の本質が見えました。
 中学生は、幼稚園時代、自分が神様仏様だったころのしっぽをぶらさげています。園長先生の目はごまかせません。
 その子の幼児期が見える、これが「親であること」です。保育園・幼稚園・学校と仕組みも変われば担任も変わるシステムに親の肩代わりは出来ない。子どもが50歳になっても、親が子どもを叱っている時、親たちは幼児期の子どもを見ていることがあります。それが、「親身」ということかもしれません。こういう時代だから、校長先生たちも親身になることを求められている。
 子育て支援と言いますが、保育園が要求されているのは、子育て「代行」です。教育と言いますが、教師たちが求められているのも、かなりの部分子育て代行です。これをすると、ますます社会に親らしさ人間性がなくなっていくのですが、ここまで来てしまっては相対性理論かエネルギー保存の法則かわかりませんが、誰かが補填していかないと先進国社会は成り立ちません。いまの政府の施策のように積極的にやられたらたまりませんが、望むと望まざるとにかかわらず「代行」するしかない。そして、お互いに育て育てられる関係だということにいつか気づくように、少しずつ意識的に、親に子育てを返してゆく。
 校長先生たちにお願いしました。中学生の中にその子の幼児期を見て下さい。それに話しかければいいのです。見えるようになるために保育園や幼稚園に行って下さい。年に三日いくとずいぶんちがいます。園で見た子たちが中学生になる頃には、校長先生は引退しているかもしれません。それでもいい。感性の問題なのです。
 講演が終わって懇親会の席で、校長先生たちが私の席に来て笑顔で言うのです。
 「松居先生の話、孫が居るので良くわかります」そして、携帯電話の中に入れてあるお孫さんたちの写真を順番に見せてくれるのです。
 「それがご本尊様ですね6」と私も笑いました。
 携帯電話の中の神様たち。この神様たちが、校長先生たちをウサギにしようとしている。

「関わること」
「親心をはぐくむ会」で、保育とは関わること、という話になった時、関わるとはどういうことか、なでしこ保育園の門倉先生が説明しようとして、うまくできず、「とにかく子どもと関わること。関わることなんだよ」(門倉先生は女性です)と歯がゆそうに繰り返したのです。
 すると、大島園長先生が言いました。
 「1歳児、2歳児で噛みつく子がいます。そういう時、私は、保育士を一人決めて、あなたは今日一日この子に関わりなさい、と言います。朝から夜まで10時間、その子につきっきりにさせるのです。他の子のことは考えなくていい、その子だけに集中させる。子どもが嫌がっても、させます。それを一週間、時には二週間。すると、その子が噛みつかなくなるのです」
 「そうなんだよ。それが関わりなんだ!」びっくりするほど大きな声で言った門倉先生の目が燃えていました。
 「四歳、五歳じゃ、遅いんだ。一歳,二歳でそれをやんなきゃもうだめなんだよ。昔はこんなことはなかったんだ」
 1歳児は、保育士一人で4人の子どもを見ます。一人が「関わったら」負担がまわりに及びます。それでも、その時に関わらないといけない。その時の「関わり」がその子の一生に影響を及ぼす。その子の幸せを遠くまで見透す門倉先生と大島先生は、だから保育者に「関わらせる」。保育界に、もう少し余裕があったら、と思います。こうした日本の将来を見透す同志が生きているうちに、社会が保育の役割りの大きさに気づいてくれたら、と思います。

 私は三年前、インドの不可植民の少女たちを集めて女性の意識改革を「踊ること」で進めている修道女のドキュメンタリーを作りました。「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」と言います。このドキュメンタリーの中ほどに、普段は学校にも満足に行かせてもらえないダリットと呼ばれる最下層の村の女の子たちが、サマーキャンプが開催されるシャクティセンターに向かって行進するシーンがあるのです。胸を張って歩く子どもたちの勇姿、笑顔、その子たちを教えるシャクティの少女たちの真剣な顔を見ていると、その子たちが「関わって」もらった子たちなのがわかります。こんな子たちに「教えること」自体がすでに幸せです。
 教えることが、教える側の幸せになる。だから、教えられる側がいつか幸せな教える人に育ってゆく。そんな幸福観が伝承されてゆく風景がシャクティの世界にあって、私に「子育て」を考える基準を教えてくれます。経済的に余裕のある先進国社会で希薄になってゆく幼児との関わりが、人間の進化にいかに大切なものだったか、わかちあわないと生きていけないインドの村、シャクティの風景を思い出すとはっきりしてくるのです。

 2008年新待機児童ゼロ作戦に「希望するすべての人が子どもを預けて働くことが出来る社会」を目指す、と書かれたとき、待機児童のほとんどである0、1、2歳児は、親と離れることを希望していないはず、「希望するすべての子どもが親と一緒にいることが出来る社会」を目指す方が自然ではないのか、と心を痛めた保育士がたくさんいました。親子が一緒に来ることが出来る子育て支援センターのような仕組みを充実させることの方が大切だ、と力を入れている園長たちもいます。一緒にいることは出来なくても、せめて年にたった一日、一人ずつ、親たちが「さあ、今日はあなたたちが優先です」という姿勢を自分の子どもだけではなく、ほかの子どもたちにも保育士にも見せてくれたら、それは人間社会に信頼関係を取り戻す意味で、大きな一歩になるはずです。

 ある園長先生が教えてくれました。三歳までに親に関心を持たれなかった子どもは、安心の土台がない。新しい体験をしたときに不安がってそれが壁になる。安心している子どもたちは、新しい体験がチャレンジになって、壁がその子を育てる。

 保育を30年やられて、いまは保育科で教えておられる中村柾子先生からいただいた手紙に書かれていた文章です。
 「最近ある学生さんの書いた文章にとても心を打たれました。…子どもの頃、両親が働いていて、自分は保育園に行っていた。迎えはいつもいちばん最後だった。そのことが悲しかったのではない。その気持ちをわかってくれる人がいれば、子どもは安心できるのだと。だから自分は、子どもの心がわかる保育士になりたい…と。とても胸を打たれました。と同時にこの人の強さにも、感動しました。」
 この学生は、自分の悲しみを糧に、子どもたちの幸せを願う人に育ちました。

 いま、こういう時代だからこそ「保育」の大切さを保育界や教育界が認識し、うったえなければなりません。週末48時間親に子どもを預けるのが心配だ、と保育士が言う時代です。せっかく五日間良い保育をしても、月曜日にまた噛みつくようになって戻ってくる、せっかくお尻がきれいになったと思ったら、週末でまた赤くただれて戻ってくる、家庭と保育園が本末転倒になってきています。
 母親が、妊娠中から保育園を探し始めるという行為が、人間にとって実はどれほど不自然か社会全体が気づかなくなっている。児童養護施設は満杯で、ほとんどが親による虐待の犠牲者です。保育所が仮児童養護施設の役割を果たさなければならなくなっています。家族の絆が薄れ、虐待やDVが増え、孤独な老人が増え続けている。こんなことを続けていたら、この国もやがて欧米のようになってしまいます。この国は、人類の大切な選択肢でなければならない。

 埼玉のある町でのことです。中学校がひとつ、小学校が二つ、保育園が三つある町です。三つの保育園が以前から結束し、親の参加する行事をたくさん保育に取り入れていました。すると、小学校が落ち着く。親たちがとても協力的で中学校でも問題がほとんど起きない。
 学校も、生徒たちがいい親になって欲しいという意識を持って教育をする。
 「教員の異動があると、この町で教えたいと希望が出るのです」と教育長さんが自慢げに話してくれました。中学校区という単位で、保育園が結束して親心を育てれば、知らず知らずのうちに学校も巻き込んで、親心のビオトープのようなものが出来あがる。
 繰り返します。
 0才児はしゃべれない、けれど、親と一緒にいたいと思っている、そう想像することが人間性だったはず。

 人間は、幼児に信頼され、信頼される時間に感謝し、幼児にあこがれて生きてゆくのがいい。
 技術や仕組みの進歩に惑わされると、急速な進歩が、何万年もの間育まれてきた人間の感性を退化させていることに気づかなくなります。もう一度、人は、信じあうために生まれてくる、ということを保育や教育の場で、親が幼児を眺めて思いだすといいのだと思います。

 子どもを産み、育てるということは、人間が宇宙から与えられた最も尊い仕事であったはず。それは宇宙との対話であり、自分自身を体験することでした。生きている自分を実感し、人生の意味を理解する道でもありました。自らの価値を知ることで、人間は納得するのです。
 もっと尊い仕事は、子どもが親たちを育てること。それは宇宙の動きそのものであり、自分自身を体現すること。一人では生きられないことを宣言し、利他の道を示すこと。知ることは求めること、と気づいたひとたちを癒すために。
 親が子どもを育てることは、人間の本能と意思がそれをさせている。
 幼児が親を育てる風景は、宇宙の意思、姿がそこに現れる。

--------------------------------------------------------
一日保育者体験に関する記事が親心を育む会のホームページから見る事が出来ます。
http://www.ac.auone-net.jp/%7eoya_hug/nikkei.html
・日本経済新聞 2008年12月27日
・読売新聞 2010年9月28日
・日本経済新聞 2011年3月9日
・都政研究 2011年4月号
・長野日報 2011年5月10日
信濃毎日新聞 2011年5月10日
高知県教育委員会の取り組みhttp://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601/hogosyanoitiniti.html
茅野市の取り組み http://www.city.chino.lg.jp/ctg/03091001/03091001.html
保育士の感想http://www.city.chino.lg.jp/ctg/Files/1/03091001/attach/hk_taiken_9.pdf
品川区の取り組み
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000011100/hpg000011037.htm
映像で見る一日保育士体験 http://www.youtube.com/watch?v=jvu4mKfzmJU
連絡先:松居 和(chokoko@aol.com
最新刊:「なぜ私たちは0歳児を授かるのか」(国書刊行会)
DVD:ドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」(ロードプロモーション)ヒューストン国際映画祭金賞受賞